昭和47年10月11日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
何でも同じですけれども、いわゆる油断大敵と申しますように、油断をしてはなりません。いよいよ勝って兜の緒を締めよと。いよいよ、信心が分かってくればくる程、神様との交流が、蜜になってくるというような、信心を頂かなければならない。そこには油断の出ようがないという訳です。信心をして、おかげを受けるという事は、当り前だと。信心しておかげのない時の方が不思議な事じゃと仰る。
それを、軽いと言うか、手前の意味に於てのおかげ。いわゆる御利益主義と申しますか、そういう御利益主義の信心ではです。自分の思うようになったら、有難い勿体ないだけれども。自分の思うようにならない。いや反対になっていくという事になってくると、これ程信心するのにといったような心が、つい油断な事になって、おかげもよう頂かず、信心までも落としてしまうという事になるのです。
ですから、私は、自分の思うようになるとか、ならないとか、おかげを受けるとか、受けないとかという事は、別にする程しの信心。言うなら、信心を分かっていく喜びと申しますか。その分かっていくという事も、どのように分かっていくかと言うと。この神様のおかげを頂かなければ、私共人間は、立ち行かんのだという事実をね、把握する事だと思う。神の実態把握とでも申しましょうか。
神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという。信心しよらん者でも、立ち行っておるじゃないかと。成程、この神様は、信心しておっても、しよらなくてもです。おかげは一様に下さってある神様。ですから、その神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという事実をね、追求把握してゆかなければなりません。そこにはです、自分の思うようになったとか、ならなかったといったような事ではない。いやむしろです。思うようになったりならなかったりといったような事、その事がです。
その事を通して、いよいよ信心、神様のお心の奥が分からせてもらう。様々な、難儀なら難儀という問題を通して、いよいよ神様の心が分からせてもらい。いわゆるおかげと思えないような、願いの反対の事になるような事の中からです。御神意の深さを分からせてもらう。なるほど、神様の御都合であったなぁ、あれも神様の神愛の現れであったなと分からせて貰う。
そういう信心がです、信心を、いよいよ鍛えて頂く事になり、それが信心の基礎になり土台になる。そして、この神様のおかげを頂かなければです。立ち行かんのだというところから、その神様へ対するところの神恩報謝の生活が出来るのです。問題は、その神恩報謝の生活という事がです。信心に油断を見せんですむ訳であります。油断せんという事はいつも張り切っておるという事だけじゃないです。いつも水かぶらんならん。いつも断食でもしよらんならんといったようなもんじゃないです。
映画を見る事もあろう。お芝居に行く事もあろう。相撲見物に行く事もあろう。色々なレジャーを楽しむと言う事もあろう。その中に、神恩報謝の心をです、いつも感じさせて頂けれる。本当に勿体ない、今日は温泉に来とるが、本当に神様のおかげを、そこにハッキリと感じさせてもらう。万事万端の御都合お繰り合わせを頂いて、本当に有難い勿体ないという、例えば、温泉行という事にになってまいりましたらです。
湯舟につかっておっても、油断どもが出来るこっじゃない。事実は、そうではないですけれども、私は、ここの修行生の方達に、私の信心の隙を見たら、いつでもよいから打ち込んで来い。本当言うたら、それこそ、隙だらけであって、今どん打ち込まれたならば、もう目も当てられん程しのところがあろうけれども。その辺は師匠は師匠として、神様が顔を立てて下さる。
まぁだおかげで打ち込まれんですんでおる訳ですけれどもです。その位な事が言えれるくらいな信心。私に信心の隙が見えたら、いつでも打ち込んできなさいと。それは、どういう事かと言うと。私の場合は、風呂におろうが、寝間におろうが、食堂におろうが、お広間におろうが、御結界にこうして御用させて頂いておろうがです。神様の有難さというものをです、いつも感じておる。いつも神様と交流しておる。
ですから誰かが後からこっそりと、打ち込みに来よるぞという様な時には、神様の方がちゃんと前もってから、ほらほらとちゃんと油断せんですむようにおかげを下さる。だから実を言うたら隙だらけですけれども、神様のおかげでです。まぁ打ち込まれんでもすむ、師匠の体面を保たせて下さる訳でしょうね。ですからいつもそうだけではありませんから、本当に何時でも何時打ち込んで来られても、身を交わせれると言うか、それを受け止められるだけの信心というものを、身に付けさせて貰うという事。
いよいよ神恩報謝の心というものを強うしていく信心。自分の願い通り思い通りになる。それが、ただ有難いというだけの信心ではなくて、右になっても左なっても、そこにおかげを感じられる信心。そういう信心が基礎になる土台になる。信心の油断または信心を落とす事のない信心が、そのようにしてお育てを頂く訳です。私は今日御神前で「台になれ」という事を頂いた。台になれという事はどういう事だろうかと思うたら、ム口(無口)と頂いた。全ての台になる。いうなら土台になる。
どういう様な事かと言うとです。私共が願わんでも頼まんでも、頂けれるおかげが、信心の土台だという事です。これは素晴らしい事です。願わんでも頼まんでも、神様が先回りをするようにしておかげを下さる。言わば無口です。神様には一つも言よらん。どうぞこうして下さい、ああして下さいと言いよらん。口に出しては言いよらん。また心の中で、それを要求しておる事もない。けれども神様がおかげを下さる。
それが信心の土台。そういう信心を頂けるようになったら、油断が出来る事もなからなければ、信心を緩めたり止めたりする事は、まず、さらさらないと思うです。そこまでの信心。願わんでも頼まんでも、神様がちゃんと先回りをして、おかげを下さる。誰かが後から、打ち込んできよるというような時には、ほらほらと神様の方が、ほらシャンとせんかと気付けて下さる。先回りをして教えて下さる。
そこで姿勢を整えとる時に打ち込んでくるのですから、見事にそれを受け止め、又は体をかわす事が出来るのである。そこでですそういう信心を、どのような風にして身に付けて行くかという事なんです。家庭の中で主婦、例えば私共の家内なら家内に申しますとです。いわゆる勝手の方の土台を承っておる訳です。「お前は、今日、ご飯を炊いてくれんか」と「今日はいっちょお菜を作ってくれんか」と。
「はい、そんなら作ってあげましょう」と言う様な事で、勝手の御用頂いておるとするならば、それは台ではありませんね。勝手場の台というのはです。誰から言われんでも、頼まれんでもです。自分がそこに一つの責任と言うかね。そうさせて頂くのが当然の事として、私の方の家内が、勝手に立たせてもらっておる。これは素晴らしい家庭の、教会の台である。土台である。皆さんもそうです。
家庭で朝御飯を炊く事も、夕御飯の用意をする事も、勝手万端の事は、当然自分がさせて頂かなければならんものだというところに、億劫を感じる事もなからなければ、少々頭が痛かっても、腹が痛かっても、やはり私共の家内なんかは、どんなに体が悪かろうと思う時でも、やはり準備だけには出て来ます。女の修行生の方達もおりますけれども、それは一生懸命やりよる事もあるけれども。スパーッと止めるような事もあるのです。当てにならん。それは、台になってないのです。
どげん気の利いとったっちゃです。只自分の都合のよか時、気分のよか時だけするとなら、それは台じゃないです。例えばここに二十人なら二十人、三十人なら三十人の教会家庭があるとするならです。自分が土台にならなければ、御飯を食べる事が出来ん。自分が土台にならなければです。皆に食事を進める事が出来ない。だからどうでも自分は、その事をです。私の方の家内なんかは、それを土台になるとか、素晴らしい御用を頂いておるとかと思わんでしょう。もう当り前の事としておるから。
けれども考えてみるとそれが土台です。最近なんかは男女同権で、女ごばっかりが御飯炊かにゃならんという事はなか。あなたも時には炊きなさい。これは女ごが女ごとしての土台が出来てない証拠です。爺さんな山に柴刈りに、婆さんな川に洗濯にというのが台なんです。それが当然の事として。外へ出て一生懸命働きをしてくると言う。それは家内からいっちょ今日は、働きに出てから金を儲けて来て下さいと言われて出ていくとであったら、台じゃないです。当然の事としてです。
男は外へ出て金儲けをさせてもろうてそれを持って帰ってくる。家ではちゃんと万事万端のいわゆる、婆さんは川に洗濯にというような事が、当り前の事として出来ていくという家庭がです。家庭の台だと思うその台が緩いでおって、本当の事が出来るはずがないと思う。そういう意味です信心の土台。さあ御用がある。今頃から百何十人の人が集まって、いろいろな御用をした。前の月次祭の時には、秋永先生から、気合いを入れられてから、ああたぐずぐずしよると記念祭はそこに来とりますよと。
今度の何時何時は、とにかく全員揃うて、御用させて頂きましょうと言われて、あげん言われとったから、出て来て、たとえそれが一日、頭のでるごと働いたっちゃ台じゃないです。言われてしよるとじゃから。言われんでです。誰から、どう言われんでも、それはさせて頂かなければおられないというものが、台になるのです。いわゆる、ム口(無口)です。言われなくてもやらせてもらう。
そういうのが積もり積もって、信心の台を作るのです。信心の土台を作るのです。日々、おかげ頂きよるけん。時にはやっぱ、御用にも行かにゃならん。まぁ時々お手伝いもせにゃならんといったようなお手伝いとか、というようなものは、土台にはなりません。信心の土台、言われんでも、頼まれんでも、只何かこちらに野心があるから、例えば、お参りをして来ておると、おかげを頂かんならんから、お参りをして来ておると言うなら、これは土台にはなりません。
それこそ、言われんでも頼まれんでも、やはり出てお礼を申し上げなければおられないという心が信心の土台になるのです。自分の信心の基礎というようなものが、しっかりしてくるという事は、これを頼まんならんから、これを願わねばならんから、又は、こう言われたから、頼まれたからというような信心では、信心の土台にはなれません。自分から率先して、それをさせて頂かなければおられないという、信心でなからなければ、信心の土台を築いていく事は出来ません。
今日、私は、この八十一節から、例えば、十里の道を九里半登ってもとこう仰る。もうあの人の信心は大丈夫、もうあそこ迄頂いちゃるなら、緩む事はなかろう、と言いよっても、スパッと信心止める人があるでしょうが。だから、分かっとるだけじゃいかんのです。信心の土台というものを作っとらんから、そのようにして、砂上に楼閣を建てるがごとしであります。
もろくも崩れ落ちてしまわなければならん。信心の基礎をしっかりしておかねばならん。それは願った事が、右になろうが左になろうがです。そこから御神意を悟らせてもろうて、信心を励ませてもらう。励ませてもらうというのも、言われたから励むのじゃない。頼まれたからする御用じゃない。といったような信心が出来て、初めて、信心の土台が出来るのです。
そこからです。この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという事実をです。実際に自分の心に感じとらせて頂けるのです。だから、信心に油断が出来るはずがない。十里を登りきって、向こうへ降りたらと、こうおっしゃる。そしたら、いよいよ安心じゃと。という事はです。いよいよこの神様のおかげを頂かなければ、本当に立ち行かないという事実をね、把握した時だと思う。
信心を、言うなら、十里の道を九里半も登っておった。ところが、自分の思うようにならなかったり、自分の条件に合わなかったりすると、信心の方を疎かにする。いわゆる油断をする。もうそれこそ、ガタガタ一遍に、下の方に降りてしまわなければならん。石垣を積むという事は、一つ一つ積み上げていくという事は、それは難しい。けれども、それを崩す段になったら、ゴロゴロ崩れるようなもんです。
折角これ程しの信心に縁を頂いて、折角これ程しのおかげを頂かせてもろうて、この世だけじゃない、あの世にも持ってゆける程しの御徳の頂ける道を、このようにして教えて頂きながら、それを頂かずしてです。あの世行きの事を思うたら、こんなに悲しい事はない。又このように悲しい思いを神様にさせる事はなかろうと私は思う。向こうへ降りたら安心じゃと。という事はそういう信心。只今申しますこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという、理屈の上では誰でも分かる。
けれどもそれを実感として頂かせて頂く為に右が左になろうが、左が右になろうがそういう事の中から信心を求めていく。そういう信心が、基礎になっていく土台になっていく。そして信心を積極的に、頼まれたから言われたからではないというような、お参りであり、御用であるという様な信心が、いよいよその台になると、神様は教えて下さるのですから、今日は。無口台になるのだそれが。その土台がです。その台が言うならば、この世だけの台ではない。あの世での台にまでなってくるのです。
だから、向こうへ降りたらという事は、そういう信心を把握したら、という事と同時に、そういう信心を持って、あの世に行ったら安心だという事です。だから一生ここのところを取り組まなければならない。あの世でも、誰彼にすがったり頼ったりせんですむだけの、迷うて出て来んですむ程しの、その基礎土台というものを頂けた時に、あの世に行った時に、これで安心じゃと。これは私共が安心するのじゃない。神様が安心して下さるのであります。神様に安心して頂ける信心。
私共が安心しとるごたるけれども。私共の安心は、当てにはならん。そこで自分の信心をいつも、確かめ確かめ果して自分は、無口の土台が出来ておるだろうか。無口の信心が出来ておるだろうか。言うならば条件があっての信心ではなかろうか。あげん言いなさるけん、させて頂いた御用じゃなかろうか。と、確かめさせて頂いて、自分の本当なもの、神様に本当に通う本当なものを出していく。所謂真を貫かせて頂く。真とは本当な事だと教えられるのですから。その本当な事が土台になっていくならばです。
どんなにおかげを頂いておっても、油断を見せるような事は、まずなかろうと私は思うのです。只出来んなりに、油断をしちゃならん、油断をしちゃならんというのは、それは余りにもきついです。ずーっと金光様を唱え続けとかんならん。とても出来んです。それが血になり肉になり、これに頂ききれるところ迄です。お互い信心を頂きたいと思う。気を緩めると直ぐに後へ戻るぞ。後へ戻らんですむ信心を頂きたい。
いよいよ、明日から、御本部参拝がございます。帰って参りますと、いよいよ記念祭を迎える事の為に、信者一同が、おかげを頂かなければなりませんが。昨日、久富繁雄さんが、今度御本部から帰らせて頂いて、十四日から、ご大祭迄、それこそ、最近青年会の方が言う、御用入殿をさせて頂こうと。泊り込みで本気で御用を頂こうと言うておられます。青年会は、泊まり込みで三日間、兎に角勤めに出とる者でも何でもみんな御用入殿するそうです。
それけん、場合にはですね。叔父さんが死んなさったとか、叔母さんが死んなさったとかち言うてから、欠勤届けを出しておる。もう誰が死んだち言われん位な青年会もある位です。けれどもそれはね、どうという事じゃないけれども。その位な一念、思いがです。私は、人から言われてから、どうこうという事じゃないという、言わば、信心の、それが基礎になる、土台になるのだと思うです。
ですから、必ずしも、教会に来なければという事ではありません。それぞれの願い、その思いをです。何とか成就させてもらう事の為にです。本気での、言われてから、あの人があげんしござるけん、私もせにゃなるめえという様な事じゃでけん。お米のお供えでもさせて頂く。日頃は大抵、普通の御大祭の時には、決まっとる。お米のお供えをする人は大体決まっとる。けれども、記念祭位には、一つ、米の一俵位おかげ頂かにゃという人達が、段々出てきておる。
ですから、本当にそういう願いを立てたら、早くお取次を頂いて、お願いをしておかなければです。さぁという間に合わんです。泥縄式の事じゃいかんです。それが、私が今日、こげん言うたけんで、家も、お供えするじゃいかん訳ですからね。日頃の願いとか、思いを結集して、いよいよ記念祭に突入してゆかなければならない。そして、本当に記念祭を境にです。それこそ、後戻りをせんですむ様な信心を身に付けたいと思います。 どうぞ。